夜中の2時過ぎに「リーン、リーン」と電話のベルが鳴り、
「今頃、だれ?」
と思いながら受話器を取り
「はい、もしもしぃ」
と応答すると、いきなり母が
「あんたはー、生きちょったねー。良かったー」
と安堵したような声で言いました。
今から14年前の今日、鹿児島市を襲った100年に1度といわれる集中豪雨による大災害の時の体験です。
その日、私は仕事が終わったあとに用事があったため車で会社に行きました。仕事を終え、用事を済ませた後大きな道路に出ると、2cmぐらい冠水していました。
「まぁ、雨が降り続いたもんねー」
ぐらいにしか思っていなかったのですが、だんだん車が多くなり大渋滞になるとともに、水かさも5cm、10cmと増えていったのです。3車線の真ん中にいると、右折しようとする車が横を通るたび、波が起こり車が揺れるのです。
「おー怖ぁー(*_*;」
と思いながらも、少ーしずつでも進む車を乗り捨てるわけにいきません。
ふと、ガソリンメーターを見るとあと少ししか残っていません。ガソリンスタンドに寄って給油した時、店員さんが
「伊敷方面とか西駅(現在の鹿児島中央駅)付近はすごいことになってるみたいですよ」
と話してくれました。が、実際にテレビのニュースで映像を見るまでは
「ふ~ん、そうなんだー」
と実感が湧かず、とにかく早く帰ろうと思いました。
ガソリンを給油してから、すいていそうな道路に向かいましたがあまり変わりなく、ラジオをつけると【災害伝言板】をやっていて、
「どこどこの誰々さん、家族は無事です。〇〇小学校にいます」
と放送していました。
【災害の時は電話はつながりにくい】というのは今は分かってることですが、その時は分からず、ましてや携帯電話もない頃です。
その頃、私の母はニュースで鹿児島市内が大変なことになっているのを知り、勤め先へ電話をかけたそうです。すると、
「〇〇さんはさっき車で帰りましたよ」
と言われ、大丈夫かなと不安になり、アパートへ電話してもつながらず、やっとつながっても出ないので、心配で心配で生きた心地がしなかったそうです。
そんな風に母が心配していることを知らない私は、ようやく11時過ぎに帰り着き(いつもは30分くらいで帰り着く)食事をとり、12時過ぎにベッドへ入りました。
で、眠りについてから2時間後に母からの電話があったわけです。
翌日、朝のニュースで被害の大きかった竜ヶ水の映像とか伊敷方面の映像を見て
「ヒェー、すごいことになってるぅー(@_@;)」
とビックリしました。その日会社は休みという連絡が入りました。会社も20cmぐらい浸水の被害に遭っていました。
翌々日、会社の同僚に話を聞くと、バスを途中で降り歩いて自宅まで帰ったとか、ずっと会社に残ってたとかいうことでした。みんな大変だったねーと思うことでした。
災害の後遺症は続きます。私の住んでいた町は最後まで水道が復旧しませんでした。その町の水がめが災害によりだめになったみたいで、他の町は水が出るのに、1週間ほど断水状態でした。
私は会社からバスで帰るとすぐに車で給水車のところまで行き、水をもらいました。あと、高校時代の先輩とか友達が
「お風呂に入りにおいでよ。ご飯も用意しておくから」
と声を掛けてくれたり、水を運ぶのが大変だろうと、友達の子ども(当時、小学校高学年)が手伝ってくれたりしました。
災害で不便な思いをしましたが、人々の優しさをしみじみと感じた日々でした。
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